野口冬人さんを偲ぶ会 に出席して「野口さんとの思い出」
- 2017/06/03
- 09:54
座右の銘は「源泉掛け流し」
遠藤徹
温泉、旅行業界からの供花
全国から多くの著名人が集まった。
第二部の懇親会
名著「我が南会津」の著者と
温泉ビューティー研究家と
この一月の誕生日をもって定年を迎えた私は、これまで遊びの目的で取ったことのない有給休暇を取り、年末から北海道の山々を愉しんでいた。温泉とスキーと酒に明け暮れる毎日は、夢にまで見た至福の時間であった。そんな或る日、野口さんの訃報が届いた。
亡くなったのは12月13日と聞く。ご遺族の配慮から親族だけの葬儀を人知れず執り行われた後の連絡のようであった。つい数ヶ月前、野口さんを車椅子に押して高田馬場の事務所に近い公園を訪れた折、少し体調が良くなったらどこか温泉にお連れします。と話したことが思い出された。あれだけ全国の温泉地を駆け巡っていた野口さんにとって、車椅子の生活がどれほど歯痒い物だったことだろう。こうして私だけ温泉に浸かりながら、公園での約束を果たせなかったことが悔やまれた。
私はたいした山には登っていないが、山の経歴だけは長い。
小5から丹沢に通っていたのでもう50年になる。
ところが思い出してみると、高校生のときに剣岳へ登った際、阿曽原温泉も仙人湯も素通りしている。山の温泉には見向きもせず汗臭い格好のまま、いつも電車で帰って来た。
いつの頃からだろう、多分、わらじに入って無類の温泉好きの宮内さんと一緒に山へ行くようになってからだから、私の温泉詣でのデビューは むしろ遅すぎたと思う。
かつて秘湯が秘湯であったころ、今より断然安い料金で憧れの温泉宿へ泊る事が出来た時代はもう取り返しがつかない。
そんな温泉に目覚めた頃のことであった。温泉の大家として名高い野口冬人という名前と同じ名前がわらじの古い名簿にあり、同一人物かどうか確かめた覚えがある。
あの野口冬人がウチの創立会員だと知り驚いたものであった。
丁度いまから10年前の秋、わらじの仲間創立50周年記念を開催した。
場所は奥鬼怒温泉の八丁の湯を借り切った。
このとき私は始めて野口さんにお目にかかり、いろいろなお話を伺って、想像していた人物像と実際のお人柄との隙間を埋めることができた。
ふと私から、「野口さんは南会津の大塩温泉の露天風呂をご存知ですか?その季節になって只見川の水位が上がらないと現れないまぼろしの温泉です」とお聞きすると
「ほぉ~、知らないねぇ~。連れて行ってくれよ」。と言われその場で約束した。
年が明けて新緑まばゆい大塩温泉には金子さんが同行され3人旅となった。
私の運転で田島から舟鼻峠を越え、玉梨温泉共同湯、川口温泉共同湯、湯倉温泉共同湯と廻り目指す大塩温泉の露天風呂へ浸かった。野口さんは大変ご満悦の様子で、「遠藤君は温泉に詳しいね、山登りを続けながらの温泉探訪は大変だろ」と仰った。
この晩は只見に暮らすK宅に厄介になり、懇親を深めた。
金子さんは、東京の暮らしを捨てて只見へ移住してきたK夫妻に随分と興味を持った様子で話をされていた。まだ、交通の便が良くなかった時代に遥々上野から会津若松経由で只見に入り、会津朝日岳の地域研究に明け暮れていたと聞く。
昭文社から出でいる山と高原地図シリーズの「浅間山」は野口さんが編集を担当していた。
野口さんから「オレはもう山登りは辛いので遠藤君が代わってくれ」と頼まれ 浅間山界隈には随分と通った。その頃、「高峰温泉物語」の出版に着手していた野口さんから「この次は私も一緒に行く」と言われ、高峰温泉に金子さんと3人で泊った。その晩、野口さんはご主人の後藤さんから原稿の題材を熱心に聞き取りしていた。
明けてみると朝から雨で、私に課せられた土日続きのコースタイム踏査は中止となった。
野口さんから「仕方ない。草津にでも行くか」と言われ、草津へ移動した。
草津温泉に着くと湯畑をぐるりと廻り「さて、何処へ立ち寄ろう。立川さんいるかな?」と、「ての字」へ横付けした。高級旅館「ての字」に入ると女将さんが「あら先生!お越しになるのでしたら仰ってくだされば」と上へ下へのもてなし振りであった。ご主人の立川さんへ、金子さんを専属のカメラマン。私を弟子。と紹介していた。風呂と会席料理を勧められたが風呂だけ頂戴し食事は遠慮した。温泉街を車で移動していたら今度は和服の女性が車を覗き込み「あら!野口先生。折角だからお寄りになって行ってください」となった。和服の女性はつづじ亭の女将であった。ベンツとジャガーが停まる駐車場には私の当時乗っていたティーダがとても不釣合いであった。
この10年間は野口さんを通していろいろな勉強をさせてもらったと思う。
訪れた先々の温泉宿では、経営状態にまで踏み込んだ話も聞かせてもらうことが多く、客足の絶えない宿もあれば、縮小、閉鎖に追い込まれようとする宿がある。世の中の嗜好や観光業界の変遷のなか、勝ち組と負け組みの分岐点が垣間見られる気がした。
山も然り。野口さんから送られてきた「青春を歩いた山々」の昭和20年代と30年代の2冊を見ると、現代の山登りとはまるで異質の空間を感じる。情報が有り余る時代に山登りを続ける私達は、むしろ本来の山の魅力を見失っているのかもしれない。
去る、4月24日。池袋のメトロポリタンホテルに於いて、「野口冬人さんを偲ぶ会」に出席させて頂いた。150名近くの出席者の大半はホテル、旅館、出版業界、観光業界の重鎮が並び、生前の野口さんの偉大な功績を改めて知るところとなった。
人生に何を遺すか残せるか。私は冒頭書き出したとおり、同じ会社で定年を迎えたことは多くの人から賞賛されるが、この私には何が遺せたのかと思うと甚だちっぽけな人生を送ってきたものだと痛感する。
式典の中で偲ぶ辞を述べるため壇上に上がられた方々のお名前を列記します。
下呂温泉水明館 瀧様
長湯温泉大丸旅館社長 竹田市長 首藤様
二岐温泉大丸あすなろ荘社長 佐藤様(日本秘湯を守る会代表)
かみのやま温泉日本の宿古窯女将 佐藤様
天橋立温泉文珠荘社長 幾世様
宴会場では市川学園OBのSさんにお会いした。「我が南会津」を初めとする幾つかの本を野口さんの経営する「現代旅行研究所」から上梓された南会津のパイオニアである。
Sさんは「日本の沢の7割はまだ未踏ですね」「北アルプスなんてガラ空き状態です」と仰る。ご自身、拝見する限りお元気な様子なのだが、難病にかかってしまい山どころではないらしい。6月恒例の山菜山行へご一緒できればとお誘い申し上げたが遅すぎた。
「遠藤君、もう少し山の本に興味を持ってくれないかなぁ」。と口癖のように野口さんから言われていた。私なりの山岳名著は自宅の本棚に並んでいるものだと思うが、野口さんの言う収集規模は計り知れないものがあった。
何度も誘われ断っていた(交通費が高い理由)大分県長湯温泉にいつか訪れてみたいと思う。野口さんが寄付した13000冊の本と山道具を展示している私設図書館に行き、もう一度野口さんをゆっくり偲んでみたいと思う。合掌。
遠藤徹
温泉、旅行業界からの供花
全国から多くの著名人が集まった。
第二部の懇親会
名著「我が南会津」の著者と
温泉ビューティー研究家と
この一月の誕生日をもって定年を迎えた私は、これまで遊びの目的で取ったことのない有給休暇を取り、年末から北海道の山々を愉しんでいた。温泉とスキーと酒に明け暮れる毎日は、夢にまで見た至福の時間であった。そんな或る日、野口さんの訃報が届いた。
亡くなったのは12月13日と聞く。ご遺族の配慮から親族だけの葬儀を人知れず執り行われた後の連絡のようであった。つい数ヶ月前、野口さんを車椅子に押して高田馬場の事務所に近い公園を訪れた折、少し体調が良くなったらどこか温泉にお連れします。と話したことが思い出された。あれだけ全国の温泉地を駆け巡っていた野口さんにとって、車椅子の生活がどれほど歯痒い物だったことだろう。こうして私だけ温泉に浸かりながら、公園での約束を果たせなかったことが悔やまれた。
私はたいした山には登っていないが、山の経歴だけは長い。
小5から丹沢に通っていたのでもう50年になる。
ところが思い出してみると、高校生のときに剣岳へ登った際、阿曽原温泉も仙人湯も素通りしている。山の温泉には見向きもせず汗臭い格好のまま、いつも電車で帰って来た。
いつの頃からだろう、多分、わらじに入って無類の温泉好きの宮内さんと一緒に山へ行くようになってからだから、私の温泉詣でのデビューは むしろ遅すぎたと思う。
かつて秘湯が秘湯であったころ、今より断然安い料金で憧れの温泉宿へ泊る事が出来た時代はもう取り返しがつかない。
そんな温泉に目覚めた頃のことであった。温泉の大家として名高い野口冬人という名前と同じ名前がわらじの古い名簿にあり、同一人物かどうか確かめた覚えがある。
あの野口冬人がウチの創立会員だと知り驚いたものであった。
丁度いまから10年前の秋、わらじの仲間創立50周年記念を開催した。
場所は奥鬼怒温泉の八丁の湯を借り切った。
このとき私は始めて野口さんにお目にかかり、いろいろなお話を伺って、想像していた人物像と実際のお人柄との隙間を埋めることができた。
ふと私から、「野口さんは南会津の大塩温泉の露天風呂をご存知ですか?その季節になって只見川の水位が上がらないと現れないまぼろしの温泉です」とお聞きすると
「ほぉ~、知らないねぇ~。連れて行ってくれよ」。と言われその場で約束した。
年が明けて新緑まばゆい大塩温泉には金子さんが同行され3人旅となった。
私の運転で田島から舟鼻峠を越え、玉梨温泉共同湯、川口温泉共同湯、湯倉温泉共同湯と廻り目指す大塩温泉の露天風呂へ浸かった。野口さんは大変ご満悦の様子で、「遠藤君は温泉に詳しいね、山登りを続けながらの温泉探訪は大変だろ」と仰った。
この晩は只見に暮らすK宅に厄介になり、懇親を深めた。
金子さんは、東京の暮らしを捨てて只見へ移住してきたK夫妻に随分と興味を持った様子で話をされていた。まだ、交通の便が良くなかった時代に遥々上野から会津若松経由で只見に入り、会津朝日岳の地域研究に明け暮れていたと聞く。
昭文社から出でいる山と高原地図シリーズの「浅間山」は野口さんが編集を担当していた。
野口さんから「オレはもう山登りは辛いので遠藤君が代わってくれ」と頼まれ 浅間山界隈には随分と通った。その頃、「高峰温泉物語」の出版に着手していた野口さんから「この次は私も一緒に行く」と言われ、高峰温泉に金子さんと3人で泊った。その晩、野口さんはご主人の後藤さんから原稿の題材を熱心に聞き取りしていた。
明けてみると朝から雨で、私に課せられた土日続きのコースタイム踏査は中止となった。
野口さんから「仕方ない。草津にでも行くか」と言われ、草津へ移動した。
草津温泉に着くと湯畑をぐるりと廻り「さて、何処へ立ち寄ろう。立川さんいるかな?」と、「ての字」へ横付けした。高級旅館「ての字」に入ると女将さんが「あら先生!お越しになるのでしたら仰ってくだされば」と上へ下へのもてなし振りであった。ご主人の立川さんへ、金子さんを専属のカメラマン。私を弟子。と紹介していた。風呂と会席料理を勧められたが風呂だけ頂戴し食事は遠慮した。温泉街を車で移動していたら今度は和服の女性が車を覗き込み「あら!野口先生。折角だからお寄りになって行ってください」となった。和服の女性はつづじ亭の女将であった。ベンツとジャガーが停まる駐車場には私の当時乗っていたティーダがとても不釣合いであった。
この10年間は野口さんを通していろいろな勉強をさせてもらったと思う。
訪れた先々の温泉宿では、経営状態にまで踏み込んだ話も聞かせてもらうことが多く、客足の絶えない宿もあれば、縮小、閉鎖に追い込まれようとする宿がある。世の中の嗜好や観光業界の変遷のなか、勝ち組と負け組みの分岐点が垣間見られる気がした。
山も然り。野口さんから送られてきた「青春を歩いた山々」の昭和20年代と30年代の2冊を見ると、現代の山登りとはまるで異質の空間を感じる。情報が有り余る時代に山登りを続ける私達は、むしろ本来の山の魅力を見失っているのかもしれない。
去る、4月24日。池袋のメトロポリタンホテルに於いて、「野口冬人さんを偲ぶ会」に出席させて頂いた。150名近くの出席者の大半はホテル、旅館、出版業界、観光業界の重鎮が並び、生前の野口さんの偉大な功績を改めて知るところとなった。
人生に何を遺すか残せるか。私は冒頭書き出したとおり、同じ会社で定年を迎えたことは多くの人から賞賛されるが、この私には何が遺せたのかと思うと甚だちっぽけな人生を送ってきたものだと痛感する。
式典の中で偲ぶ辞を述べるため壇上に上がられた方々のお名前を列記します。
下呂温泉水明館 瀧様
長湯温泉大丸旅館社長 竹田市長 首藤様
二岐温泉大丸あすなろ荘社長 佐藤様(日本秘湯を守る会代表)
かみのやま温泉日本の宿古窯女将 佐藤様
天橋立温泉文珠荘社長 幾世様
宴会場では市川学園OBのSさんにお会いした。「我が南会津」を初めとする幾つかの本を野口さんの経営する「現代旅行研究所」から上梓された南会津のパイオニアである。
Sさんは「日本の沢の7割はまだ未踏ですね」「北アルプスなんてガラ空き状態です」と仰る。ご自身、拝見する限りお元気な様子なのだが、難病にかかってしまい山どころではないらしい。6月恒例の山菜山行へご一緒できればとお誘い申し上げたが遅すぎた。
「遠藤君、もう少し山の本に興味を持ってくれないかなぁ」。と口癖のように野口さんから言われていた。私なりの山岳名著は自宅の本棚に並んでいるものだと思うが、野口さんの言う収集規模は計り知れないものがあった。
何度も誘われ断っていた(交通費が高い理由)大分県長湯温泉にいつか訪れてみたいと思う。野口さんが寄付した13000冊の本と山道具を展示している私設図書館に行き、もう一度野口さんをゆっくり偲んでみたいと思う。合掌。